前回の記事では、歳を取れば脳全体が一律に衰えていくわけではない、という話をしました。
▶関連記事:「名前が出てこない」は脳の衰え?シニアの脳は何歳から変わるのか
では、次に気になるのはこれです。
歳を取ってからでも、脳は鍛えられるのか?
ちょうど、同世代の知人から面白い話を聞きました。
ある時期から仕事で数字を扱うことが一気に増え、毎日のように計算するようになったそうです。
すると最近、
「前より計算が速くなった気がする」
と言います。
これ、本当にあるのでしょうか。
もし本当なら、歳を取ってからでも脳は伸びるということになります。
一方、私自身も脳の衰えに抗おうと、いろいろなことをやってきました。
新しく知った漢字や書けなくなった漢字を手書きする。
なかなか覚えられない長い固有名詞を覚える。
たとえば、
「セルゲイ・ラフマニノフ」
「サヘラントロプス・チャデンシス」
「ウルズラ・フォン・デア・ライエン」
「バブ・エル・マンデブ海峡」
毎朝こんな名前を唱えているわけです。
ところが、改めて考えると疑問が湧いてきます。
ラフマニノフを覚えられるようになったら、私の脳は若返ったと言えるのか?
今回は、自分がやってきたことも含めて、シニアの「脳トレ」を科学の目で考えてみます。
「計算が速くなった」は十分あり得る
まず、知人の話からです。
結論から言えば、
毎日のように計算するようになって、以前より計算が速くなる。
これは十分に考えられます。
シニアになったからといって、学習する能力がなくなるわけではありません。
高齢者を対象とした認知トレーニングの研究でも、訓練した課題の成績が改善することは繰り返し報告されています。
実行機能を対象にした研究のレビューでも、訓練した認知課題については一貫して成績の改善が見られています。
運動技能についても同じです。
2024年のレビューでは、高齢になると動きが遅くなったり、正確さが低下したりする傾向はあるものの、高齢者にも練習によって技能を向上させる能力が残っていると整理されています。
つまり、
「歳を取ったから、もう伸びない」
ではありません。
使う。繰り返す。工夫する。
そうした経験によって、シニアになってからでも能力は変化します。
知人の「計算が速くなった」という実感も、それほど不思議な話ではなさそうです。
ただし「計算が速くなった=脳全体が若返った」ではない
ここが、今回いちばん大切なところです。
計算を繰り返して、計算が速くなった。
これは分かりやすい。
では、計算を毎日続ければ、
人の名前も思い出しやすくなる。
判断力も上がる。
記憶力も上がる。
認知症も防げる。
――そこまで言えるのでしょうか。
ここには大きな飛躍があります。
認知トレーニングの研究には、「転移」という考え方があります。
練習したものと似た能力にも効果が広がることを「近転移」。
あまり関係のない能力にまで効果が広がることを「遠転移」と呼びます。
たとえば、
計算の練習 → 計算が速くなる
これは、練習したことや、それに近い能力へ効果が広がる「近転移」と考えられます。
でも、
計算の練習 → 人の名前を思い出す力まで上がる
となると、話は別です。
認知トレーニングの研究では、近転移は比較的確認されやすい一方、遠転移については、はっきりした効果が確認されているとは言いにくいのが現状です。
ですから、
「これを毎日やれば脳全体が鍛えられる」
という話には、少し用心した方がよさそうです。
では、私の「ラフマニノフ」は意味がない?
ここで、私の脳トレも俎上に載せましょう。
書けなくなった漢字を手書きする
「読めるけれど書けない」
という漢字が増えたことが気になり、私は、ときどき手書きしています。
「黴」
「膾炙」
「真贋」
「和気藹々」
などです。
これを繰り返せば、その漢字を以前より書けるようになる。
これは立派な学習です。
ただし、
難しい漢字を書けば海馬が鍛えられ、記憶力全体が若返る
とまでは言えません。
「書けなかった漢字が書けるようになった」。
まずは、それで十分なのだと思います。
長い固有名詞を覚える
ラフマニノフたちも同じです。
何度も思い出そうとし、間違え、また確認する。
そうすれば、その名前を思い出すのは上手になるでしょう。
これも意味のないことではありません。
むしろ、知らなかったことを覚えようとすること自体、私は楽しい。
ただ、
長い名前を覚えれば、物忘れ全般がなくなる
とは言えません。
そう考えると、私がやっていることは、
「海馬を若返らせる特別な脳トレ」
というより、
歳を取ってからも、新しいことを覚えて楽しむ学習
くらいに考える方がよさそうです。
私は、その方が気に入りました。
「利き手と反対の手を使えば脳が若返る」は?
以前の私は、こんなことも書いていました。
「歯磨きやスマートフォン操作を、あえて利き手と反対の手でやってみる」
いつもと違う動きをすれば、脳に新しい刺激が入る。
ここまでは分かります。
高齢者でも新しい運動技能を練習することで能力が向上し、それに伴う脳の変化が研究されています。
しかし、
逆手で歯を磨けばミエリンが太くなり、脳全体が若返る。
そこまで言う根拠はありません。
これも、
「普段と違う動きをやってみるのは面白い」
「慣れない動作を練習すれば、その動作は上達する」
くらいが適切でしょう。
歯ブラシを左手に持っただけで脳年齢が10歳若返るなら、話は簡単なんですが(笑)。
新しい音楽や本に触れるのはどうだろう
これは少し性格が違います。
以前、私は小説をきっかけに、それまでほとんど聴かなかった音楽を聴き始めたことがあります。
知らない作家を読む。
初めての音楽を聴く。
行ったことのない場所へ行く。
新しい仕事を覚える。
人と話す。
こうした経験には、「○○をすれば脳のこの部分が何%若返る」といった単純な効果を求めなくてもよいのではないでしょうか。
新しいことを知り、考え、覚え、ときには人と話す。
それ自体が、複数の認知機能を使う生活になります。
2025年の成人期全体の学習研究をまとめたレビューでも、健康な加齢によって学習能力に変化は生じるものの、すべての学習能力が同じように失われるわけではないことが示されています。
「脳の若返り」を目的に新しいことを始めるより、
面白いからやる。知りたいから覚える。できなかったから、もう一度やる。
私は、こちらの方が長続きするように思います。
では、研究が勧める「脳にいいこと」は何だろう
ここで視点を少し広げてみます。
2026年7月、WHO(世界保健機関)は「認知機能低下と認知症のリスク低減」に関するガイドラインを更新しました。
そこに並んでいるものを見ると、意外なほど「必殺の脳トレ」はありません。
身体活動を増やす。
認知トレーニングや認知刺激に取り組む。
社会活動に参加する。
健康的な食事をする。
高血圧、糖尿病、高コレステロールなどを適切に管理する。
聴力の問題にも対応する。
喫煙や有害な飲酒を避ける。
大気汚染への曝露を減らす。
つまり、脳だけを取り出して鍛えようという話ではないのです。
WHOは、認知機能が正常な成人や軽度認知障害のある人に対して、認知トレーニング・認知刺激や社会活動への参加もリスク低減策として挙げています。
一方で、欠乏症がない人が認知機能低下や認知症を防ぐ目的でビタミンB・E、オメガ3、多種ビタミン・ミネラルのサプリメントを摂ることは推奨していません。
「これさえ飲めば」「これだけやれば」という話ではないのでしょう。
脳だけを鍛えようとしない
ここまで調べて、私自身の考えも少し変わりました。
以前は、
海馬を鍛える。
ミエリンを増やす。
神経回路を強くする。
そんなふうに、脳の中の何かを狙い撃ちする発想をしていました。
でも、私たちは脳だけで生活しているわけではありません。
歩けば、身体を動かします。
初めての場所へ行けば、周囲を見て判断します。
人と会えば、相手の話を聞き、自分の考えを言葉にします。
本を読めば、知らないことを知ります。
仕事をすれば、問題を考え、失敗し、やり方を変えます。
料理でも、旅行でも、筋力トレーニングでも、新しい趣味でもいい。
身体を使い、頭を使い、人とかかわり、知らないことに出会う。
そういう生活全体が、結果として脳を使うことになります。
「脳トレをやめよう」ではない
ここは誤解のないようにしておきたいところです。
計算ドリルが好きなら、やればいい。
漢字を書くのが好きなら、書けばいい。
将棋でも、囲碁でも、パズルでもいい。
私はたぶん、これからもラフマニノフを覚えます。
大切なのは、
「これさえやっていれば脳全体が若返る」
と期待しすぎないことです。
計算をすれば、計算が上手になるかもしれない。
新しい名前を覚えようとすれば、その名前を覚えられる。
新しい運動を練習すれば、その運動が上達する。
そして、そうやって、
「昨日できなかったことが、今日は少しできた」
という経験を積み重ねていく。
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それはシニアになっても起こります。
「脳が10歳若返った」と言わなくても、十分うれしいことではないでしょうか。
まとめ|若い脳に戻すより、今の脳を使い続ける
同世代の知人が言った、
「最近、前より計算が速くなった気がする」
という一言から、ずいぶん話が広がりました。
調べてみて分かったのは、
シニアになっても、使い、学び、練習することで伸びる能力はある。
ということです。
一方、
一つの脳トレをすれば、その効果が脳全体へ広がる。
とまでは簡単に言えません。
だったら、
「脳を若返らせなければ」
と力むより、
今ある脳を、面白がって使い続ける。
そんなふうに考えたいと思います。
歩く。
読む。
覚える。
考える。
人と話す。
知らない音楽を聴く。
新しいことをやってみる。
そして、ときどき失敗する。
歳を取ったからといって、新しいことを覚える必要がなくなるわけではありません。
むしろ、
「まだ知らんこと、いっぱいあるやん」
と思えるうちは、なかなか面白い。
明日の朝も、
「サヘラントロプス・チャデンシス」
くらいは唱えておきましょうか。
脳全体が若返る保証はありませんが(笑)。
この記事を書くにあたって参考にした研究・資料
- World Health Organization. Risk reduction of cognitive decline and dementia: WHO guidelines, second edition. 2026. WHOは2026年7月に第2版を公表し、身体活動、認知的活動、社会参加、生活習慣病への対応などを含む認知機能低下・認知症リスク低減策をまとめています。
- Nguyen L, Murphy K, Andrews G. Cognitive and neural plasticity in old age: A systematic review of evidence from executive functions cognitive training. Ageing Research Reviews, 2019.
- Teixeira-Santos AC, et al. Reviewing working memory training gains in healthy older adults: A meta-analytic review of transfer for cognitive outcomes. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 2019.
- Bherer L. Cognitive plasticity in older adults: effects of cognitive training and physical exercise. Annals of the New York Academy of Sciences, 2015.
- Aging, brain plasticity, and motor learning. Ageing Research Reviews, 2024.
- Cognitive and neural mechanisms of learning and interventions for improvement across the adult lifespan: A systematic review. Neuroscience & Biobehavioral Reviews, 2025.


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