少年の「どうぞ」がくれたもの -世界が広がる瞬間 3rd

子供・教育

一人でランチを済ませ、お店を出ようとしたときのことです。

向こうから、高齢のご夫婦と十歳くらいの男の子がやってきました。ドアは、押しても引いても開くスウィングドアです。

私はドアを引き、「どうぞ」というつもりで体を横へ寄せました。すると、その男の子が満面の笑顔でドアを押さえ、今度は私に先へ行くよう促したのです。

一瞬、迷いました。

このまま、お互いに譲り合っていたら、かえってその場の時間が止まってしまいます。

私は少し口角を上げて、先に一歩踏み出しました。後ろでは、ご夫婦が笑顔で見送ってくれています。私も自然と笑顔になっていました。

ほんの数秒の出来事です。

でも、その場にスッと、そよ風が吹いたような気がしました。

言葉にはしなかった「どうぞ」

人に道を譲ったり、譲られたりすることは、日常の中で時々あります。でも、今回は少し違いました。

こんなふうに、小さな少年から先を譲られたのは初めてだったからです。

もちろん、私が高齢者に見えたわけではありません……たぶん(笑)。

なぜ少年がそうしてくれたのか、本当のところは分かりません。でも、その何気ない気遣いが、とても嬉しかったのです。

そういえば、私も少年も「どうぞ」とは言っていません。

私が体を横へ寄せる。
少年が笑顔でドアを押さえる。

それだけです。

でも、ちゃんと「どうぞ」は伝わっていました。

少なくとも24時間、いい気分でした

店を出てからも、少年の満面の笑顔が妙に心に残っていました。家に帰ってからも思い出しました。

あくる日、このことを思い出すと、ちょっといい気分になります。

少なくとも24時間、いい気分でした。

何か特別なものをもらったわけではありません。
長い会話をしたわけでもありません。
名前すら知りません。

それでも、ほんの数秒の出来事が、一人のオヤジの気分を翌日までよくしてくれました。

人と人とのやり取りって、おもしろいものです。

あの少年は、何も知らない

あの少年は、自分のしたことが翌日まで私の心に残っていたなんて、知りません。おそらく今頃は、あの日のことさえ忘れているでしょう。

私も、その場ではちょっと嬉しかっただけです。それが翌日になって、「そういえば昨日のあの子……」と思い出しました。

そこで初めて、ほんの小さな気遣いが、受け取った人の中では意外に長く残ることもあるんだな、と気づきました。

「人には親切にしましょう」

そんな話にまで大きくするつもりはありません。

ただ、知らない誰かとの数秒のやり取りが、その日の気分を少しよくすることがあります。

少なくとも、あの日の私にはそうでした。

少年の「どうぞ」がくれたもの

世界が広がるというと、新しい知識を得たり、知らない場所へ行ったりすることを思い浮かべます。

このシリーズの1stでは、この木花、なんていう名前? ― 世界が広がる瞬間 1st ― で、知らなかった木の名前を知りました。

2ndでは、「まだ知らない世界があった。― 世界が広がる瞬間 2nd ―」で、河鍋暁斎という画家に出会いました。

でも、今回は、少し違います。

新しい知識を得たわけではありません。見知らぬ少年との、ほんの数秒の出来事です。

「こんなふうに、人からもらった小さな気持ちよさが、一日続くこともあんねんなぁ」

それもまた、私にとっては、世界が少し広がった瞬間でした。

ほんの数秒の出来事でした。私も、少し口角を上げて店を出ただけです。

でも、言葉にしなかった「どうぞ」は、一人のオヤジを少なくとも一日は幸せな気分にしてくれました。

ほんの数秒の出来事なのに、不思議なものです。

あの日、私の世界に吹いたそよ風は、翌日になっても、まだ少し残っていました。

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